1月26日(金)、日本フィル、小林研一郎指揮「マーラー9番」のコンサートに行きます(サントリーホール)。マーラー9番について予習をしようと思い、バーンスタインがハーバード大学で講義したDVD レナード・バーンスタイン/答えのない質問 1973年ハーバード大学での講座と実演 を見直しました。
以下、バーンスタインによるマーラー9番の解説です。
第9番はマーラーにとって遺言である。
最終楽章を特に検証すると、「我々は死の世紀にあり、マーラーはその預言者である」ということがわかる。マーラーはHyper Sensitiveであり、1908年の時点で20世紀が直面する悲惨な事態を予見していた。
マーラーは何を見たか。
3種類の死
1.自分の死 第9の冒頭部は弱った彼の心臓の不整脈の模倣
2.調性の死 音楽の死そのもの マーラーの後期すべての作品が音楽・人生への決別の表明だった
3.社会の死、ファウスト的知性の死。
我々は究極の不確実性に直面している。
我々は成熟の末、死を受容するが、同時に不滅も希求する。
はかないものと知りながら、未来を信じている。
第9番の最終楽章はフィナーレで死の音として提示される。そして、逆説的に聴く者を再生する。
フィナーレを聴くとき、前の楽章を思い出してもらいたい。
第1楽章 偉大な小説のよう、恐怖と慈しみが交差する。苦悩する対位旋律と和声的な忍従。愛、ニ長調への別れ。
第2楽章 超レントラーなスケルツォ
大地の喜びへの別れ、自然への別れを経験しながら、青春の無邪気さをほろ苦く回想する。
第3楽章 グロテスクなスケルツォ
忙しい世の中への別れ。都会的な生活、にぎやかな市場とパーティ、華やかなサクセスストーリーへの別れ。うつろな笑い声。
上記3楽章はすべて、なりふり構わぬ疾走と酔っ払いの足取り。全てに対する決別。
第4楽章 アダージョ:最後の別れ
祈りの形式によるマーラーのコラール、告別の賛美歌。生命と信仰をたたえながら、調性の回復を祈る。クライマックスの祈りはとりわけ強烈。でも救われない。
高揚した祈りが続く間、予告なく断続する冷気が透明な空間に広がり、氷のように燃えている。禅を思わせる純粋で不動な瞑想。自我を捨てて全てを受け入れる境地。でも救われない。
マーラーが「激情的に」と指示しているコラールは絶望的。
彼の二面性が情熱的な激しい祈りと東洋的鎮静を反復する。
迷った末の2面性。
最後の賛美歌で彼は意気消沈し、ひたすら祈り続ける。
すすり泣きと犠牲的な試練。
このクライマックスは未遂のまま終わる。
それが救いなのかもしれない。
最後のあがきも目標に到達することなく、
ひたすら忍従を暗示するだけ。服従そのもの。
そして迎える信じがたい終幕。最後のページ。あらゆる芸術作品のなかで、死と放棄という行為にもっとも近づいたページ。その恐るべき緩やかさは、彼の意図によりアダージッシモと記されている。次に「遅く」、「息が絶えるように」、「ためらうように」。言い足りないのか、最後の数小節は「極度に遅く」と。
絡み合う音の糸が無残にも断ち切れていく。
希望と忍従の間で我々はしがみつくが、命の糸の手ごたえはない。
それでも手を離せない。
2本の糸が1本になり、なくなり、見失う。残るは沈黙だけ。
再び1本を求め、2本を求め、また見失う。
安らかな死に心奪われ、死ぬことの豊かさを思い、苦しみなく息絶える。
我々が失った全てをマーラーの死が与えてくれる。